中庸品質のススメーアメリカ流クオリティと日本の品質の間

先日、アメリカで同じ部屋に一週間滞在し、アメリカ流クオリティを示す例を四つも見つけてしまった。

  1. お風呂の栓がなかった。前に泊まった人はどうしたんだという疑問が先に湧いた
  2. お風呂の蛇口の装置が見た目ではわからないけれど、お湯を出す取っ手と、湯船用蛇口とシャワーを切り替える取っ手が、重なっているのだが、片方の寸法が出っ張っていて、取っ手が交差するところで、ぶつかってしまうこと、引っ張りながら回すというコツが必要
  3. コンセントの装置が取り付けが、どう見ても斜めになっていること
  4. ランドリーをお願いしたいが、袋がないので持ってきてくれといったら、3つも持ってきてくれたはいいけれど、中身をすぐに入れるから持って行ってくれといったら、それは私の係りじゃないからと、別の係りをわざわざ呼んできたこと

いずれも、ちょっとだけ丁寧にやれば、あるいはその場で判断すればいいようなことで、日本人的感覚からすればあまりにもレベルが低すぎて、おいおいおい、と言いたくなるところだ。

でも、ここでアメリカ流クオリティがダメで、日本流品質が最高という、お決まりの議論では終わらせたくないので、少し頭を切り替えて見た。考えてみれば、上に書いた件はいずれも目くじらを立てるほどでもないし、仕方ないね、まあいっかで、済ませられる話ではある。お風呂の栓が無くなるのは不思議ではあるけれど、呼べば直してくれる。そうでない方が心地よいのは確かだが、ブツクサ言いながらも我慢しようと思えばできる。

逆に日本流のモノやサービスの品質はいつでもどこでも過剰すぎるってのも考え直さないとはいないと思う。山手線で1分遅れてごめんなさいのアナウンスすることや、いちいち発車のベルを鳴らすことにどれだけの意味があるだろうか。匠品質を訴えるだけでいいのか、ということなどなど。日本の過剰品質問題を出して警鐘をならすってことは、世の中の人が大勢やってるので、そちらにおまかせ。(Googleで”過剰品質”と打つだけで、300万件以上ヒットするぐらい、このテーマは昔からされているけれども、いいか悪いかの二元論が多い。)

要は、品質にも中庸。品質高めるベキところは高く、低くてもいいところは、コストを下げたり我慢したりすればいいわけで、品質を場合に応じてコントロールするってことが、グローバル化&ローカル対応のこれからには肝要技術になるのではないか、と強調したくなるわけです。中庸っていうと、中途半端なイメージがあるかもしれないが、実は闇雲に高品質のつくりこみをすること以上に、設計時にもう一段高度な技と蓄積経験が必要。なぜって、感覚的・定性的な?品質?を、定量的に定義すること、測れること、制御できることのすべてができないといけないから。これは設計の世界。日本はつくること生産の世界は十分に得意だから、これからはもっと設計の世界を極めないと。

品質を設計するために、シックスシグマとか、タグチメソッドというすばらしい方法論があるんですけど、根付くのを待っていると世界に置いていかれるかもしれない。