移動じゃなくて、旅がしたいんだよ−はつかりと八甲田のこと

毎週のように出張で新幹線に乗っていると、仕事の移動手段と割り切っているので、特別景色を楽しむということもなく乗っている。夏以外の富士山の姿を眺めるときは少し楽しみではあるけれど、それ以外は雑誌を読むか、パソコンやっているか、寝てるかのどれか。当たり前だよね、単なる移動をしているだけなんだから。

でも、ふっと思い出すことがある。そういえば昔の特急電車には食堂車があったよなあと。小学校六年ごろ始めて、家族で東京に旅行にいったことは鮮明でもないけれど、いくつかの場面を覚えている。東北本線で八戸から上野(東京駅ではない)までの「特急はつかり」に乗れたときのうれしさ。食堂車で食事をすることで、旅を味わえるような気がして、とても楽しみだった。父親に連れられて何かを食べたはいいのだが、揺れや緊張感のせいで気持ちが悪くなったことを覚えている。でも、食堂車には行けた。

当時日本一のビルだった霞ヶ関ビルの最上階レストランで、生まれて初めてマカロニグラタンという超ハイカラな料理を食べて、大感激したこととか、叔父さんが羽田空港に連れて行ってくれて、半日飽きずに楽しんだこととか、おばあさんはどこに行ってもラーメンか親子丼しか頼まないこととか、東京には珍しく大雪が降って大騒ぎになったこととか、記憶の断片は残っている。でも、特別な響きを持つあの「特急はつかり」の食堂車に行ったことが、旅を感じさせてくれた最初のシーンとして覚えているのだ。

旅って考えると、いろいろ出てくるものだ。
高校生のころブラスバンドをやっていて、部長である私と副部長の二人で、OBが勤めている(神田だったか、神保町だったかな)下倉楽器店に行き、そこでしか入手できない楽譜を買い出しに行くという役割を仰せつかった。部会での合意ということで、旅費と楽譜代金をみんなのカンパや餞別でまかなったので、特急なんて乗れるはずもなく、寝台車も贅沢すぎて、夕方出発し12時間かけて上野に朝着くという、硬い直角の4人掛け座席があるだけの夜行急行「八甲田」に乗った。

正月前後の帰省の季節に乗ると、やたらと暖房が効いているのと、席から人があふれて床に新聞紙やバスタオルを置いて寝ている人たちでいっぱいなので、淀んだ暑苦しい空気で頭がボーっとしてくる一方で、窓側だけが霜に触れた冷たい隙間風が流れるので、窓に額をつけたまま寝たりした。途中何度か10分ぐらい停車したときに吸う外の空気のおいしかったこと。受験のときとか、あれから何度も急行八甲田にはお世話になって、苦行に近いものがあったけれど、深夜停車したどことも知れない駅での不思議な雰囲気とともに、あれはあれで、旅のひとつの体験だったのだろう。

大学に入って北海道のあちこちの山に行くとき、行きは当時の国鉄に乗り、帰りは旅費節約のためにヒッチハイクというパターンが結構あった。それはそれで面白い逸話はたくさんあるけれど、帰りも国鉄を利用したあるとき、トラブルか事故のせいで、滝川駅(だったと思う)にかなりしばらく停車することになった。発車の目処がつかないという。山の帰りで夜だったから、列車のなかで散々酒を飲んでいたのだが、そのうち飲み切ってしまった。じゃあ、駅前の店を探して酒を調達してこようということになって、数人で駅の外に出たはいいけれどけっこういい時間になっていて北海道の田舎の駅前に開いているスーパーも酒屋もありはしない。酒切れは死活問題なので、酔いがさめるのもかまわず駅周辺をうろうろしていると、焼き鳥屋風の飲み屋にポツリンと明かりがつき、開いている。ここは、割高になるが飲み屋から酒を一升ビンで買おうかという話になり、買うだけだと申し訳ないしずうずうしい変なやつらだと思われるだろうから、どうせ列車はしばらく動きそうもないし、30分ぐらい中で一杯やってから、酒を売ってもらうことにしたのだった。

そういうときって、みな親切になるもので、女将さんに説明したら、そういう理由ならということで原価でお酒を譲ってもらったような気がする。うれしかったなぁ。駅に戻ったら、ホームの様相が一変していて、シートだか新聞紙だかを敷いて宴会をやっている他の大学の連中が居て、けっこうな盛り上がりぶりになっていた。そこに混じりはしなかったと思うが、都合の悪いことは忘れていたりするから、もしかするといっしょに飲んでしまったかもしれない。ともあれ、しっかりと記憶に残っている、これもユニークな旅のシーンだ。

いい旅には、驚きや、新鮮な感動や、苦労や予期せぬ出来事が欠かせない。そのときは、”いい”と思えなくても、一見何の変哲もないように見えても、体が感じていることは、きっと後でいい旅に熟成させてくれる、麹みたいになっているものだ。