カンヌからアンティーブへ - その1

時として、心地よい土地の名前がある。高校生の頃は、札幌という名前に恋した。テレビで札幌という名前を聞き、本でその名前を読むたびにすぐさま反応し、憧れたものだった。それは、行ってみたい都市への恋焦がれそのものだった。実際に予備校と大学を札幌で過ごした。その後気恥ずかしいけれど、パリに響いた時期があり、一時はロシアだったり、アラスカだったりしたものだ。

会社の行事でここ何年か、モナコを中心にコート・ダ・ジュール地区を歩く機会がある。コート・ダ・ジュールという名前はあまり心に響かないのに、その中の小さな町アンティーブという響きには、いかにも小洒落た海辺町というような妙に惹かれるものがあって、カンヌに一泊して早朝から午前にかけてアンティーブに寄ってみようという考えは、瞬間的に思いついた。

 


アンティーブの前に、前日のカンヌについても語る方がいいだろう。会社のイベントが終わって、モナコからローカル線に揺られてカンヌに着いたのは午後遅く。コート・ダ・ジュールの有名な土地の駅はどこも無味乾燥で、着いたなぁという想いを満たしてくれる情緒は全くないのは、カンヌも同じだった。予約していたのは駅前に無数にあるホテルの一つで、ほんの少しだけ洒落た雰囲気のカジュアルなホテル。部屋は広くゴージャスだった前日までと打って変わって、こじんまりとした質素な一室。いつものことだが、ネットの写真と実際の部屋にギャップがあるのはこのクラスのホテルでは致し方なく、初めてで部屋も人の対応も質素だしシャワーしかないのが普通だから、侘しさや不安が漂う。着いて数時間は諦めとともにそれに慣れなくてはならない。

 

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何はともあれ、写真を撮りに来ているから、暗くなるまでにひと歩きしなくては。今回は「地球の歩き方」を持ってくるのを忘れたので、その場の雰囲気と嗅覚だけを頼りに歩く。それがまた緊張感と不安と期待を混ぜた非日常的感覚をもたらす。まずは港を目指そう。一番の目抜き通りらしきブランドの居並ぶ通りを横切り、どんな港かと少し楽しみにしていたものの、カンヌの港は何のドキドキももたらさなかった。小綺麗なだけで何にもないのだ。ここに来たのは失敗だったのかという思いがよぎりながら、歩き続ける。

 

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iPhoneに保管してあったオフライン地図に気になるところにマークを付けていたので見てみると、博物館になっているお城があって、そこの塔から市街地が見下ろせるとガイドブックに書いてあったのだと思い出す。あの先に見えるのがそのお城に違いない。まずはそこを目指そう。海沿いに歩くと、バスターミナル広場にぶつかり、そこの建物の一面が大きな壁画になっているのに気づく。よく見ると、映画をテーマにした愉快な壁画なのだった。そういえばカンヌといえば映画祭だったな、その時改めて気付いて、映画祭の会場に行って見るということは露ほども考えなかったのは、自分の好みで歩いているにしても、我ながら偏り過ぎかもしれないと、ひとりごちる。後で聞いたら、赤絨毯がしいてあるそうだけれど、だから何?って思うのはやはりひねくれているのだろう。

 

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壁画のある建物側から坂道が続いているからお城に行く道に違いない。坂道は振り返ると、景色が突然変わって楽しい。下から、夫婦らしき二人がゆっくり登ってくる。左側の石畳の階段と一緒に、二人の歩く姿を撮ると絵になりそうだなと、カメラを構えながら、頃合いのいいタイミングでシャッターを押す。周囲の色が派手だから、モノクロにしてみよう。古い城壁の一部を見ながら歩いていたら、海辺では萎えていた写真欲の気持ちが少しずつ湧いてくる。この何でもない城壁の石たちを上手に撮れたらどんなにいいだろうか。中途半端な写真だろうと思いながらも、無駄なシャッターを押してあがく。坂を登り切ったところに門があり、赤い旗が出迎える。お城博物館の入り口だ。

 

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どんな博物館なのか事前に知っていたら入らなかったに違いない。古代遺跡が中心に展示されている博物館なのだった。でも単なる遺跡ではなく、シャーマンのお面や妖術に使ったらしき、おどろおどろしいものたちがいて、写真に撮ると乗り移るんではないかと思わせるような不気味な展示物が多い。古代の楽器であろう、想像を超える形やもので作られた音の出る何がしかは、これまでどこでも見たことのない珍妙なものだ。こんなにも工夫して様々な楽器を古代の人たちが作ったということは、楽器は唯一のエンターテイメントだったのだ。思えば、仕事をする食べる寝る以外に時間はたっぷりあったのだろうから、音を出すアイデアをひねってコツコツと楽器を作る時間は楽しい時間だったろう。いよいよ音を出す段になって、家族や仲間はその音を聴くことを待ち焦がれていたのではないか。楽器たちの自然淘汰を経て次第に洗練された形や音の出し方が決まって行ったに違いない。城の大きな空間の壁に並べられた楽器たちは、いにしえの時代の生活を少しばかり想像させてくれた。思わぬ形でいい所に来れた嬉しさ。

 

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一通り歩くと、中庭らしきところに出れるガラスのドアが何箇所かある。殺風景だったので、あまり期待せずに出てみると、博物館にほとんど見学者がいないので、中庭にはますます誰もおらず、静まりかえっている。ここ空間だけが閉ざされ異国の地のよう。目の前にある塔に階段があり、上まで登れると書いているので、本能が絶対に登れと囁く。小さな窓からの自然光しかない塔の中は不気味に薄暗く、早く登って上に行きたい気持ちをさらに後押しするようだ。最後のドアを開けた時の、爽快感はなんといったらいいのか、カンヌに来たのは失敗だったというそれまでの思いを、全部帳消しにさせてくれる素晴らしい一瞬。

 

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塔の上からはそれより高いものがなく、カンヌを360度の眺望で見渡せるのだった。あいにくと薄曇りなのだけれど、そのせいで午後遅くの太陽の陽が海にうっすらと反射している状態になり、静謐さを演出してくれるようだ。このシーンに突然”午後の曳航”という三島由紀夫の小説タイトルが突然頭に浮かんだのは、景色と記憶の化学反応だったに違いない。読んでもいない小説に私の脳が勝手に思い描いていたイメージに、突然関連付けられたのだ。そう、”私の午後の曳航”を発見してくれた素晴らしいシーンだった。あぁ、来てよかったな。この予期せぬ一瞬を味わうためだけでも。

 

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パノラマ写真をシャカシャカ撮っていると、二人の女性が上がってきた。私もそうだったであろうように、驚き幸福そうな表情が瞬時に浮かぶ。会話が片言なのは、フランス語しか話せない一人と英語しか話せないもう一人という不思議なカップルだからのよう。写真を撮ってほしいというので、英語で返事をしたら、”あなたは英語を話せるのね”と嬉しそうに、話す。ついでなので、私も撮ってもらうことにする。自分撮りなんかやらないから、こういう機会でも少しは記念に撮ってもらうことにしよう。

山頂にしばらく過ごすような気分で、ゆっくりと30分は景色と城の塔のたたずまいを楽しむ。午後の陽が、夕日に近くなってきて、気分もよくなったし、もう少し散歩を続けよう。城の反対側に回り、海辺に降りて見る。途中のくすんだ路地に、トリコロールの旗の赤と真っ赤なオートバイが目立つので、新しいカメラ富士フィルムX30の、モノクロ+色抽出機能で、赤だけだしたモノクロにしてみようと思い立つ。つまらない景色が、不思議と生き生きするので、ちょっとこの機能で何枚か遊ぶ。

 

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海辺をもどって、城へ向かう道の起点になっていた壁画のあるバスターミナルに戻ってきた。その先の道は商店街のよう。期待していた旧市街の中の商店街ではないか。ツキが回ってきた。少し歩くと、左側に広い空間が見えるので、曲がって進むと市場だ。朝市だけ開催しているのだろう、今は車一台いない広大な空間になっている。綺麗に掃除された清々しい大空間は、朝市にはさぞ活気があるだろうな。

 

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商店街に戻ると、惣菜屋さんが見つかり、3種類のキッシュがとてもおいしそうに見えて、目が離せなくなる。フランスパンにチーズと思っていたけれど、それだけだと素っ気ないしキッシュも食べたいな、明日の朝食にもいいしと、買う理由を無理に見つける。パンも売っていたので、食材をその店ですべて調達できたから、大きな目的達成して気分も落ち着いた。散歩を続けよう。

 

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最近帽子をかぶり始めたからというわけではないけれど、帽子屋のショーウィンドウのマネキン人形たちの表情がどれも個性があって美しいので、見とれる。写真たくさん。衝動で自分用の帽子を買おうかという気持ちも少し動いたけれど、我慢。陽も落ちて、商店街のネオンが映えるようになり、人の通りも増えてきた。だいぶ今風の店が多いのは、どこの国でもしかたがない。生活のための商店街であることが感じられるいい小道だった。

 

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途中の小さな店で、水とベルギービールを調達。日本の半値でベルギービールが飲めるのはうれしい。ホテルに戻ると初めてなのに、家に帰ったように安心するのはいつも不思議なのだ。外では緊張しているからなんだろうな。人にはいつも帰る場所が必要なのだ、私が帰る場所は今日はこのホテルしかない。湯船はないけれど、熱いシャワーを浴びて、じっくりとからだを温めてビールを飲みながら、食事を始めよう。パンとチーズにワインという質素な食事は、今回はキッシュやクレームブリュレも付いて実はそれなりに豪華で、佗しい感じは全然しないのだ。むしろレストランで一人で食べる方が詫びしいだろうな。ホテルの部屋でゆっくりと一人でワインを飲みながら、パンとチーズというのは佗しいどころが、とても幸せを感じる至福のひと時ではある。

 

その2へ続く

 

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