汽車をヒッチハイクしてしまった話ー真冬の北海道にて

私が学生の頃はまだ、ヒッチハイクがどうにかできる時代でした。北海道ですけど。初めて、ヒッチハイクをしたのは、山岳部に入ってすぐ6月に知床に行った帰りでした。ヒッチハイクで札幌まで帰れというのが、指示であったか、アドバイスであったか、誰かの思いつきであたか、忘れましたが、とにかく帰りの切符を買わなかったのでした。同期が11人もいたので、誰が一番早く札幌まで帰れるか競争ということになり、えらく盛り上がった覚えがあります。夜になったら、旅館に泊まるなど考えもせず、寝袋で野宿のみ。

一人だと怖いので、二人一組でやりました。初めて手を上げるときは恐る恐るで、運転手たちに次々とじろじろ見られるのも居心地悪く、ほとんど無視されますので、本当にたどり着けるのか、まったく見当もつかないありさまでした。それでも、道端で手を挙げていると止まってくれるものです。まず、どこまで行ってもらえるかが、最初の鬼門。札幌の方向ということだけ示し、途中の手頃なところで下してもらうわけですが、もちろん距離が長いと、ラッキーとなるし、高々、次の町までのときは、それでも一歩進めたことに感謝して、気を取り直します。道中運転手さんの話を聞くのは楽しい時間でした。実は、ドライブ中話し相手を欲しいというので乗せてくれる人が意外と多いのです。北海道のドライブは単調ですから。

そして、降りる場所を的確にお願いすることが、次の車を捕まえやすくする秘訣なのです。一番いいのは町と町をつなぐ大き目の道路上、次にまずいのは車の通りの少ない横道、最悪なのは街中や車の多すぎる幹線道路で、止めることがまず無理。そこそこの車の頻度があって、止まれるスペースがあって、見てから乗せてもいいかなと判断して止まれるぐらいの見通しの良い直線道路まで移動することが次の秘訣。止まってくれるであろう相手のことを考えないといけません。

さて、最初のヒッチハイクで気を良くして、お金のないときは帰りの切符節約のために何度かやりました。一度は、帰省のときに、札幌から函館まで一人でヒッチハイクをし、函館の夜景を見せてもらったこともあります。

 

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さて、題目の話に移りましょうか。まず、季節は真冬。場所はその後廃線になってしまった、深川と名寄をつなぐ深名線。当時の山行記録が山岳部の部報に残っていましたので、日付を確認してみたところ昭和56年(1981年)12月31日に恩根内駅を出発して、天塩山地の最高峰であるピッシリ山(1032m)を目指して、12日間のスキー山行をしたのです。日本一気温の低い地域で有名な朱鞠内湖周辺です。西高東低冬型の気圧配置になると、日本海からの季節風が直撃し豪雪になる地域。我々も一度、放射冷却で-26°の最低気温まで経験し、ダイヤモンドダストも見ることができました。

この時の記録を見ると、歩けたのが7日間、テントで停滞したのが5日間もありました。記録によると連日膝からモモまでまでのラッセル(雪かきしながらの歩き)で、最終日近くには2-3日で1mもの積雪になったのでした。結局日数足りず、エスケープといって山行計画を途中で変更し、降りることにしたのです。それでも山が深すぎて、人家のある最寄りの駅にたどり着くにも後一泊してスキーで歩かないといけないのでした。

 

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深名線があるのはもちろん知っていましたが、一番近い駅「蕗の台」は無人駅で道の除雪もしていませんし、列車は冬は運行していないのでした。ともあれ、まずは線路を目指そうということで、蕗の台というその無人駅にたどり着いたのでした。次の駅朱鞠内まで歩けば、客車が走っていて帰れますが、距離が長く途中で一泊必要でした。

積雪が2mほどあったと思いますが、直前に来て初めて線路がきれいに除雪してあるのがわかりました。なんと、列車は少なくとも走っている!そうしたら、タイミングのいいことに、着いて30分もしないうちに、トンネルの方から列車が来る音がしてきます。でも、客車ではなく貨物列車なのでした。道理で時刻表には載ってないわけです。貨物車ですし、我々は、ザックの上に座りながら通り過ぎるのを見ているつもりだったのです。

 

ところが、何ということか列車の方が目の前で勝手に止まったのです。運転手が、真冬にこんな山奥になんで人が居るのか理由を知りたかったのでした。私は、かくかくしかじか冬山登山の最終日でここにたどり着き、隣の駅まで帰りたいのだと言ったら、運転手は、最終車両は車掌車が付いてるからそれに乗れ、というではありませんか。貨物車は長いです。でも、運転手は最後尾の車両をピタリと我々に前に停めてくれたのですね。

ところが車掌は、列車が止まった事情を全く知りませんから、我々は再度、かくかくしかじかを車掌に説明し、無事乗せてもらうことができたのでした。それがまた、暖かいストーブ列車でしたね。こんなに驚き感動した経験はそうそうありません。

調べたら、深名線は1995年に廃線になってるのですね。北海道の鉄道にはたくさんお世話になりました。

ジャズ喫茶って、やっぱりいいなあ

先日地方都市に一泊した時ホテルの近所を散歩していたら、如何にも!といった風情の階段の先のきたない壁の向こうからジャズが聞こえて来る。知らなければ絶対に足を踏み入れないだろう感じのみすぼらしい入り口(写真)。ところが、こういう構えの店こそ、"本物の"地元に根付いたジャズ喫茶だということを、昔鍛えた本能が教えてくれる。
 
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食事の後いそいそと入ってみた。大正解だった。本物だった!薄暗い店内に、レコードが大量に棚に並び、玄人志向のでかいスピーカーから流れてくる大音量のジャズ。渋い無口のおじさんマスターが一人で切り盛り。カウンターには常連さんが一人と奥に仲間連れの一組。絵に描いたような、本物ジャズ喫茶の姿ではないですか?うれしさを超えて、いきなり桃源郷にはいったような気分になったのは、まったく大げさでもない。
 
 
私はスピーカー真ん前の居心地良さそうな広いスペースに一人で座る。マスターが、メニューを持ってくる。深夜まで営業してるので、さすがにコーヒーだけではない。普通のバーにあるようなアルコールメニューが充実。ここはもう、アイラのスモーキーなシングルモルトArdbegをストレートで注文し、渋さには思いっきり渋さで対抗だ。専用グラスがまたよい。底に横文字が書かれていて、上から拡大されてくっきりと見えるデザイン(写真)。スモーキーモルトに合うスモークチーズが二切れさり気なく置かれる。向こうも思いっきり渋さに磨きをかけてくる。
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明かりはもちろん間接照明、特に各テーブルに固定されたマスター手作りの小さな照明が粋だ。暗い店内を保ったままテーブル上のものが見えるようにしたいという実に配慮の行き届いたマスターの店づくりへの執念を感じる。単なる上っついたこだわりではない(写真)。誰も読まないだろうけど、古い雑誌やジャズ本が置いてあるのは、店のインテリアとしては重要。タバコの煙で茶色になっているのが、歴史を物語る。
 
で、もちろんスピーカーは、ドーンと本物の音を出す素晴らしいもの。私はオーディオは全くの素人なのでメーカーや機器については無知だけれど、いい音を聴けばもちろんわかる。この店で、スピーカーの目の前で、サックス、ピアノ、ベースにドラムが鳴り出したら、音を聴くことに夢中になってしまうのは当たり前だ。もう何時間でも座っていてもいい気分になる。学生の頃はこうやって、優に半日は珈琲一杯で座り続けていたものだ。もちろん額にしわを寄せて腕を組みながら。
 
いい音だと、曲や奏者が誰かは二の次になってしまい、ほんとに聞き惚れてしまう。音の中に体ごと浸れるというのがぴったりかもしれない。音の空間を演出してくれる、ジャズ喫茶の醍醐味だ。してみると、このジャズ喫茶というのは、もしかすると日本ならではの独自の文化ではないだろうか?アメリカは本場だし、ヨーロッパなんかでも、カフェは会話のためにあるから、部屋を暗くして音楽だけ聞くなんていう文化はなさそうだ。クラシック喫茶と同様、本物なかなか聴けないんで、レコードやCDで究極の音楽空間を追い求めたい、日本人の職人的文化様式の一つではないかと思う。
 
ともあれ、20年ぶりぐらいに、ジャズ喫茶を堪能できた幸せなひと時でした。
 

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信州を一人旅した高校生

先日、数年ぶりに信州方面に出張でした。特急あずさに乗って八王子を越えて窓の景色を眺めていると、ましてや弁当を食べる時間帯だと、どうしたって旅行という雰囲気になります。やっぱり、高校時代に八戸から上高地まで一人旅したことを思い出しました。中央本線に乗ると必ずあの当時のことが思い出されます。1975年か、76年頃です。

 

確か、高校3年、山への興味が目覚め、北アルプスへの憧れが募っていた頃でした。芳野満彦の山靴の音、松濤明の風雪のビバーク、加藤文太郎の単独行といったノンフィクション、井上靖氷壁新田次郎串田孫一などを熱心に読んでいた頃です。本の中では、新宿から夜行に乗って早朝に松本に着くというくだりが必ずありました。中央本線に乗った瞬間に、気持ちが山に向かうという雰囲気を味わってみたいと思いました。本でしか知らない登山と信州という土地への憧れが混じり合って、その聖地ともいえる北アルプスに一度行ってみたいという思いがどんどん膨らんでいったのですね。

 

といっても、全くの見知らぬ土地、知人もなく、登山経験も全然ない高校生がいきなり北アルプスに登れるはずもなく、上高地のキャンプ場に泊まるだけならばどうにかなるだろうと、心配する親を納得させ、決して一人では山には登らないと誓って、夏休みに行ったのでした。

 

八戸から上野まで夜行急行で12時間、新宿から松本までその当時の特急の名前も「あずさ」だったように思いますが、3時間以上たぶん4時間はかかったのではと。やっとのことで思いを巡らせてきた信州という憧れの土地に来ることができたうれしさと窓の景色の新鮮さとで、列車の中でそれだけでも旅に出たという感慨に胸がいっぱいになったのでした。

 

私のその時の格好はすごかったはずです。というのも、いとこから借りたキスリングザックに簡易テントや着替え、食糧、アルコール調理器などを入れただけで一杯になり、寝袋は持っていなかったので、母親に頼んで毛布を畳んだ片方をタコ糸で縫ってもらって袋状にするという安易で嵩張る寝具をデパートの大きな紙袋に入れて持っていったのです。格好など一切構わない風体でした。

 

上高地でのキャンプは、早朝の鳥の声に起こされて、テントの開けると木々と霧に囲まれた梓川が目の前に見えた時の感動はそれはそれは素晴らしいものでした。本の中でしか想像できなかったその瞬間を見ただけでも、来たかいがあったと思いました。アルコール調理器が非力過ぎて、朝お湯を沸かすだけで1時間もかかった悲惨な経験もしましたけれど。それで、どうやって、何を食べたのだったか。

 

親には絶対山には一人で登らないと誓ったものの、いざ現地に行くとその姿に圧倒され、梓川のほとりを散歩するだけではとても飽き足りません。それで、上高地から一番近くて低い西穂高岳のルートを、危険のない行けるところまで行って、少しでも不安を感じたら戻って来ようと決めて、向かったのでした。記憶は定かではありませんが、稜線までは行かなかったと思います。それでも、きれいな森の中を歩き、自分の中では結構な未知の冒険的な興奮を味わえたのでした。

 

せっかく遥々来た信州ですから、上高地の後は、松本市内のリーズナブルな料理屋さんを探し、味噌田楽と馬刺しを食べた覚えがあります。高校生一人は珍しかったせいか、若いお姉さんたちからおごられたり、帰りの電車では登山帰りのお兄さんに声をかけてもらって、その後文通に発展したりと、いま思えば未知の場所と見知らぬ人との出会いを楽しむという旅のだいご味をたっぷりと味わったものでした。

 

あの旅は、初めての家から離れての長距離かつ一人旅でもありましたし、自分も一人前で何かできるんだというようなものを感じた大きな経験でした。諏訪、小淵沢や韮崎という駅名もしっかりと記憶に残りました。今書きながら思い出し、あの時の経験が未だに体に染みついているのだということがわかりました。中央線に乗ると無条件にノスタルジックな思いになるのは、そのせいなのです。