森での経験と記憶と感覚

絵画の展示会は普通、画家、美術館、コレクションに焦点を当てるけれども、テーマを決めて横断的にキュレーションする展示会は少ない。
先日、東京都庭園美術館森と芸術 私たちの中にひそむ森の記憶」に行ってきた。タイトルに惹かれたということもあるし、展示会のキュレーターをされた巖谷國士氏の「森と芸術」という本が、同時に出版されていたので、展示会も見たくなったという動機もあるし、やはり、森という横軸で眺める視点が面白そうだった、というのが一番の理由だろうか。とてもユニークなよい展示会だった。

森と芸術

森と芸術


タイトルが意図するように、また、自分の中で予期していたように、私の森の記憶、森に対する思いや経験を想起させられてしまったので、素直に、私の森の記憶を語ってみることにしよう。

  • 怖い森

まっさきに思い出したのが、子供の頃しょっちゅう泊りに行った、叔父の家の裏山の怖さ。森というよりも、雑木林に近い何の変哲もない裏山だったのだけれど、昼間は気にならないのに、薄暗くクモの巣の張った離れの穴あき便所に、夜行くのに、裏山を一瞥でもしようものなら、得体のしれない何かを見てしまいそうな気がして、周りを見ずに用足しをして一目散に帰ってくるのに、毎回必死だった。裏山の不気味さと、裏山の向こうにある自分知らない世界への怖れが混じった感覚だった。そのうち、裏山の向こうが果物畑で、裏山もそれほど広くないただの雑木林であることが分かると、裏山の世界を想像する怖さはなくなり、つまらなくなってしまったのだった。

  • 深い森

実家が建てられた当時、小学生低学年の頃、周りには何カ所か杉林の塊がまだ残っていた。たいして広くもないのに、けもの道風の道がいく筋と、小さな川やお地蔵様があったと思う。真昼でも薄暗いその杉林に踏み入れると、ずーと先まで行ってしまうと戻ってこれないのではないかという怖れを、毎回抱かせる不思議な林だった。いつも遊び場にしていて、突っ切ると原っぱや住宅地があるのはわかっているのに、その杉林の中にポツンと一人でいると、大きな森の中に取り残されている感覚になったものだった。
年が経つにつれて、一つ一つと杉林が小さくなっていき、林たちは無防備になり神秘さのたたずまいは消え失せ、ただの木々の集まりになってしまった。中学の頃にはすべて伐採されてしまい、子供の頃抱いた懐かしい怖れの感覚もいっしょに伐採されてしまったかのような寂しさ、空虚感が漂ったことを思い出す。

  • 原始の森

大学では山岳部でたくさん山を登った。北海道であったから、特に、人の手の入っていない森の姿を見、森に囲まれて何日も過ごしたのだけれど、不思議なことに、”森”として意識したことはそれほど多くなかったように思うのだ。山や川が主体で、それらを覆う森は当たり前のようにあったからだろうか。しかし、一度雪山をスキーで歩いて、人の視線にさらされたことのない未開の森を歩いているという強い感覚に襲われたことがある。北海道の北部にあって豪雪と寒さでは日本一の地域、天塩山地を10日間スキーで旅をした。夏は歩けるところではない。冬も、よほどの山好きでもまずは来ないところ。冬の天塩山地を歩いた人は、数えられるほどしかいないかもしれないと思った時、今我々は、昔と違わぬ原始の森を歩こうとしているという高揚感に満たされたのだった。どんよりした冬空、吹雪や快晴、気温-20度以下の中、黙々とスキーで山の中を歩き、未開の原始の森を最初に歩いた人間と同じような体験をしているかもしれないと感じながら、一尾根、一谷越えるたびに新しい景色に出会うのは、実に体と心に沁み渡るすばらしい経験だった。

  • 母なる森

山岳部の仲間と札幌近郊の山小屋周辺を、スキーで1日歩いたとき、この世にこれだけ静かな空間はないのではないか、と思えるような経験をした。全くの無風・快晴の中、早朝小屋を出て、スキーで歩く。スキーが雪を掻き分ける音と自分の呼吸音しかしない。休憩すると全く無音の世界が訪れた。友もその空間を味わっているのか、お互い会話をしない。たまに雪が木々からさらさら落ちる音だけが、世界の唯一の音、それがよけい静かさを際立たせる。鳥さえも、静けさを味わいたくて鳴き声を発していないようにも思われた。しだいに樹林が低くなり、上部の景色が見え始めた時の爽快感。世の中に音はなく、目の前に真っ白い山がしっかりと存在する。何か大きな懐に包まれているような、ようこそこの世界に来てくれたとでも言われているような、そういう感覚だったようにも思い出されるのだ。その空間と時だけが、異界の理想郷であったかのように。

  • 神々の森

写真を撮るようになって、寺や神社に行く機会が増えた。年月を経た建物やものとして、形や風情の美しさとして、境内に宿る神聖な空気感を味わうために、寺や神社は優れた被写体。神社には、かならず大きな木がある。特に、著名な神社は、鎮守の森を持つ。森や木々自体というよりも、境内の風情や建物と一体になった樹木をうまく撮れないだろうか、と思っているんだけれど、残念ながらまだまだ経験不足。神聖な森を撮影させたらこの人の右に出る人はいないだろうという方がおられるので、気に入っている写真集と一緒に紹介しておこう。

神々の杜

神々の杜

ちなみに、Amazonのカスタマーレビューを書いているのは、私。なので、堂々と引用しておこう。ほんとにお勧めですよ。

【古代日本の空気感を味わえます】
日本人は無神論者が大多数ですけれど、それは一神教に対してであって、実は、八百万の神を心の奥底で信じたいところがあり、神社にお参りに行って、あの空気感を皆が共有していると感じるのは、私だけでしょうか。神社とその周辺を撮影しているのですが、まさに、こういう場面・空気を、我々みんな感じているという自然なフレームを、しっかりと切り取ってくれています。雪の場面はすべてよし。社の周りの森風景は著者のお得意なので、素晴らしいのは当然。キヤノンの展示会でのオリジナルプリントはすばらしいものでした。偶然、著者もその場におられてお話させていただく機会を持てました。数多の写真家がいたのに、どうしてこれまで、こういう写真集が出てこなかったのか、まさに待ち望んでいた写真集と感じたしだい。有名な神社での写真もありますが、それはたまたまであって、特定の神社の写真ではなく、むしろ無名性の美しさがあると思います。本当に出会えてうれしい写真集。感謝。

  • 神秘の森

こういう森を、体験したい。シベリアやアラスカあたりに行けば、まだあるのだろう。星野道夫の写真集や本を読むと、一人テントで一カ月もアラスカの森や荒野で過ごすこととは何かが、片鱗でもわかるような気がする。アラスカに行かないまでも、生まれ故郷にある八甲田山とか、土地柄の好きな裏磐梯とか、その昔はどんなに神秘的な姿であったことか、と想像する。人が住み活動することで、森の神秘のベールがはがされ、単なる風光明媚な場所と化してしまうのは、人間の本質的な罪であろう。自然保護・地球にやさしくというけれど、管理され公園化された自然は表身は保存されていても、そこに宿っていた神や妖精は遠の昔に消え失せ、その魂はないのだ。「もののけ姫」のシシ神様は、その象徴として描かれているように思う。もしかすると今でも、一人彷徨っている時だけ、森の片隅に一瞬見つけられるかもしれないし、夜の森にうっすらと漂っているのを感じられるかもしれない。



原初の人たちは、森で生活をし糧を得ていた。森への恐れ、畏れ、敬いから、神々しいものの存在を感じ、何万年も日々暮らしてきたのだ。だから、私たちは、森に帰りたい、あるいは還りたいという本能を持っているはず。そこに戻ることの心地よさをどこかに感じているはずなのだ。