判断を誤る経営者を想定したフェール・セーフ運用思想のすすめ

先般、福島第一原発の事故は人災であるとの報告書が出ました。なぜ、”人災”が起こってしまうのか。最近のベストセラー「失敗の本質」が示しているように(といっても、まだ読んでませんが)、旧日本軍がそうであったように日本人の“エリート”の特性なのか、考えさせられることが多いテーマですけれど、今回それはちょっと置いておいてというか、そこを逆手に取って、判断を失敗することを前提にした技術を作るというのも、一つの考え方としてあり得るかもしれないと思いました。初めは、ブラックジョークだなあと思ったのですが、ふーん、意外とまじめに考える価値があるかもしれないと。半々の気持ちで書いています。

航空機を設計している方々は、フェールセーフ設計思想ということをよくご存じです。航空機事故が起こるたびに出てくる用語ですから、結構一般にもなじみのある技術用語になりました。その昔は、壊れないように作るというのが当たり前でした。ところが、壊れないようにと考えると頑丈に作る必要があり、重くなります。また、壊れないという前提で作るので、万が一壊れた場合にフォローするしくみを設計に取り入れなくなってしまいます。航空機はたくさんの事故を経験した結果、逆説的ですが、一部の部品が壊れたとしても全体としては壊れず動作する方策を取る方が、安全であることに気が付いたのです。大規模で複雑なシステムやプラントほど、いつどこが壊れるかわからない要素が増えてくるので、このフェール・セーフ設計思想が生きてくるわけです。さて、ここまでは技術の中に閉じた話としてのおさらいでした。

いま、問題になっているのは、技術に対して誠実でも謙虚でもない原発管理者や経営者が、判断を誤るか恣意的な判断をする可能性が非常に高いので、そのフェール・リスクを予め組み込んだ運用設計ができないだろうか、ということです。日本固有の現実だからこそニーズの高いユニークな技術になるんじゃないでしょうか。もしかすると、将来原発をたくさん立ててしまった途上国へも輸出できる、極めて高度な付加価値にも成りえます。米国の航空宇宙産業がフェール・セーフ設計思想を生みだしたように、日本は、原発事故を契機として、フェール・セーフ運用思想を開発するというのは、あながちジョークにはならないような気がするのですけれど。

例えばですが、地震や津波への対策というのは、さまざまな仮想的なシナリオを”想定”して、仮想的な対策を立てるということです。東電は、学会や自らの調査結果をたくさん無視してきたことが明らかにされていますが、そのようなデータが出てきたら、まずはシステムに入力することを、恣意的な判断ではなく、運用思想の原理として義務付けるのです。入力されると公開もされ、そのデータなり想定シナリオに対してどういう判断根拠でどういう対策を立てるのかを、システムが期限付きで、運用管理者に指示します。

システムは、自らを守るために、リスクを最小限にするように自律的に動くのです。リスクを最小限に自律的判断をするということは、常に停止を念頭に運用されるということです。現在の原発運用管理者が常に、稼働を前提にして運用しているのとは全く逆のポリシーで動くのです。もちろん、現在も何か異常が起こると報告する・止めるということが形式上はなされていますが、大事なときに限って、情報が隠されたり、稼働第一の原則にいつの間にか変わったりするので、悲しいかな、人間判断の運用はむしろ信頼できないわけですね。

誰か、同じようなこと考えてますよね、きっと。悲しいかな、表に出来ないだけで。

移動じゃなくて、旅がしたいんだよ−はつかりと八甲田のこと

毎週のように出張で新幹線に乗っていると、仕事の移動手段と割り切っているので、特別景色を楽しむということもなく乗っている。夏以外の富士山の姿を眺めるときは少し楽しみではあるけれど、それ以外は雑誌を読むか、パソコンやっているか、寝てるかのどれか。当たり前だよね、単なる移動をしているだけなんだから。

でも、ふっと思い出すことがある。そういえば昔の特急電車には食堂車があったよなあと。小学校六年ごろ始めて、家族で東京に旅行にいったことは鮮明でもないけれど、いくつかの場面を覚えている。東北本線で八戸から上野(東京駅ではない)までの「特急はつかり」に乗れたときのうれしさ。食堂車で食事をすることで、旅を味わえるような気がして、とても楽しみだった。父親に連れられて何かを食べたはいいのだが、揺れや緊張感のせいで気持ちが悪くなったことを覚えている。でも、食堂車には行けた。

当時日本一のビルだった霞ヶ関ビルの最上階レストランで、生まれて初めてマカロニグラタンという超ハイカラな料理を食べて、大感激したこととか、叔父さんが羽田空港に連れて行ってくれて、半日飽きずに楽しんだこととか、おばあさんはどこに行ってもラーメンか親子丼しか頼まないこととか、東京には珍しく大雪が降って大騒ぎになったこととか、記憶の断片は残っている。でも、特別な響きを持つあの「特急はつかり」の食堂車に行ったことが、旅を感じさせてくれた最初のシーンとして覚えているのだ。

旅って考えると、いろいろ出てくるものだ。
高校生のころブラスバンドをやっていて、部長である私と副部長の二人で、OBが勤めている(神田だったか、神保町だったかな)下倉楽器店に行き、そこでしか入手できない楽譜を買い出しに行くという役割を仰せつかった。部会での合意ということで、旅費と楽譜代金をみんなのカンパや餞別でまかなったので、特急なんて乗れるはずもなく、寝台車も贅沢すぎて、夕方出発し12時間かけて上野に朝着くという、硬い直角の4人掛け座席があるだけの夜行急行「八甲田」に乗った。

正月前後の帰省の季節に乗ると、やたらと暖房が効いているのと、席から人があふれて床に新聞紙やバスタオルを置いて寝ている人たちでいっぱいなので、淀んだ暑苦しい空気で頭がボーっとしてくる一方で、窓側だけが霜に触れた冷たい隙間風が流れるので、窓に額をつけたまま寝たりした。途中何度か10分ぐらい停車したときに吸う外の空気のおいしかったこと。受験のときとか、あれから何度も急行八甲田にはお世話になって、苦行に近いものがあったけれど、深夜停車したどことも知れない駅での不思議な雰囲気とともに、あれはあれで、旅のひとつの体験だったのだろう。

大学に入って北海道のあちこちの山に行くとき、行きは当時の国鉄に乗り、帰りは旅費節約のためにヒッチハイクというパターンが結構あった。それはそれで面白い逸話はたくさんあるけれど、帰りも国鉄を利用したあるとき、トラブルか事故のせいで、滝川駅(だったと思う)にかなりしばらく停車することになった。発車の目処がつかないという。山の帰りで夜だったから、列車のなかで散々酒を飲んでいたのだが、そのうち飲み切ってしまった。じゃあ、駅前の店を探して酒を調達してこようということになって、数人で駅の外に出たはいいけれどけっこういい時間になっていて北海道の田舎の駅前に開いているスーパーも酒屋もありはしない。酒切れは死活問題なので、酔いがさめるのもかまわず駅周辺をうろうろしていると、焼き鳥屋風の飲み屋にポツリンと明かりがつき、開いている。ここは、割高になるが飲み屋から酒を一升ビンで買おうかという話になり、買うだけだと申し訳ないしずうずうしい変なやつらだと思われるだろうから、どうせ列車はしばらく動きそうもないし、30分ぐらい中で一杯やってから、酒を売ってもらうことにしたのだった。

そういうときって、みな親切になるもので、女将さんに説明したら、そういう理由ならということで原価でお酒を譲ってもらったような気がする。うれしかったなぁ。駅に戻ったら、ホームの様相が一変していて、シートだか新聞紙だかを敷いて宴会をやっている他の大学の連中が居て、けっこうな盛り上がりぶりになっていた。そこに混じりはしなかったと思うが、都合の悪いことは忘れていたりするから、もしかするといっしょに飲んでしまったかもしれない。ともあれ、しっかりと記憶に残っている、これもユニークな旅のシーンだ。

いい旅には、驚きや、新鮮な感動や、苦労や予期せぬ出来事が欠かせない。そのときは、”いい”と思えなくても、一見何の変哲もないように見えても、体が感じていることは、きっと後でいい旅に熟成させてくれる、麹みたいになっているものだ。

マロコ、さようなら、ありがとう

6年間家族だったシマリスのマロコが、一昨日突然あの世へ旅立ちました。特別の存在でした。心の整理なぞ全くついていませんが、二日前からのあるがままの想いを残しておこうと思います。マロコへの惜別のために。どんなに特別な存在だったか。

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2012年4月13日 19:20 都内
さっき、マロコ、 が死んだ、という、妻からの、悲痛な連絡、家族の宝が、死んだ?!わたしたちのシマリス、かわいい可愛い小さなシマリス、マロコ、... 。

ショックで現実感ない、急いで帰りの電車に乗った。茫然もしてない。こうして何か書いてるだけ。電車に乗っている。起こったらしいことに身構えてさえもいない。ただ電車に乗っている。何をすればいい?

今は、マロコの写真は見るまい、見ても現実感ない。帰りを急ぎたいけど、いつもの電車に乗るだけ。何を喪失したのか、今はわからない、感じない。妻が悲痛に暮れてただただ待っている。自分を責めたらダメだよ。早く帰るだけが今できること。

2012年4月13日 19:50 横浜
あぁ、変わり果てたマロコの姿を見なくてはいけないんだ、見てあげなくてはいけない。マロコを、長生きさせられなくてごめんね、と、一緒に過ごしてくれてありがとう、と送ってあげなくてはと、覚悟だけ決める。

まだ電車に乗っている。妻と顔を合わせたら、マロコの姿を見たら、どっと溢れて来るに決まっている。目をつぶらないと、まだ電車の中なんだ。

本当なのか?などと問うまい。どうすれば受け入れるのかなども、虚しい。待っているのは事実だけなのだから。いいかげん早く着いてくれ!

2012年4月13日 20:25 海老名
最後の乗り換え。本厚木に着いたら自転車だ。雨が小降り。傘忘れた。ちょうどいい。ようやく着く。電車終わり。


2012年4月14日 0:00自宅
マロコが亡くなって8時間あまり、帰宅して3時間経った。
亡骸を見て、抱いて、茫然、ショック、男だって泣くさ、家族の星だったんだから。
今朝も新鮮な餌を上げ、哺乳瓶を抱えるようにスポイトに手を添えて薬を飲む姿を目にしたばかりだったのだから。今は大好きなフリース生地の布に包まれて横たわる。

妻のショックは計り知れない。事故が起きたのだ。病院に連れて行ったけれど、すでに心臓も止まっていたとのこと。6歳になったばかり、体は弱いけれど、もっと長生きさせてあげようと話していたのに。背骨を痛め、毎週キセノン照射をやって、薬を飲ませ、もう前のように痛みで鳴くことがなくなったのに。尻尾の先が化膿してきたので思い切って切断し、順調に回復して元気が出てきたばかりだったのに。寝室を開放し、昼間マロコが伸び伸び遊べるように、妻が遊び場風に改造し始めたばかりだったのに。この数日、昼間見違えるように元気に跳ね回るようになったと聞いて、今度の週末はその様子が見れると楽しみにしていたのに。

明日は埋めてあげよう。今日と明日が、マロコの姿を見れる最後だから、たくさんたくさん写真を撮った。気持ち良さそうに寝ている冷たい体はもう動かない。だから、瞑ったままの目も、鼻も、髭も耳も、前足や後ろ足や、背中のシマシマも、短くなった尻尾もフサフサのお腹も、全部アップで撮ってあげた。もう会えないからね。明日からは土に帰るのだから。

今晩は、最後にいっしょに寝よう。いつものお気に入りの寝床で。毎朝は、寝床から出すと手の中で丸くなって二度寝を欠かさなかった。明日朝も、少しだけ手の中で寝ようかね、もう体は丸くなれないけど。 先代のネムネムがなくなったときもそれはそれは悲しかった。あんなに悲しい経験はもう嫌だ、と思ったのに、小リスのマロコにあったばかりに、その頼りなげな姿に、妻が本能的な選択眼で飼うことにしたのだった。

直後に、脳炎であることが発覚し、危うく一命を取り止めたのは覚えているかな。真っ直ぐ立てなくなって、クルクル回り始めた時は、動転してしまったものだ。その時お世話になった動物病院がかかりつけ医になった。先生はマロコの病気を全部知っている。あまりにも何度も病院にお世話になるものだから、冗談で日本一高いシマリスになったかもしれないねと、妻とはよく話していた。お金には替えられないマロコが家族に与えてくれることへの、いや、家族としての当然のマロコへの想い。


4月14日17:00
今朝マロコの体が柔らかくなっていたので、優しくゆっくりゆっくり丸るくしてあげた。これでいつもの通り、今日も手の中で寝れるよ。最後だからゆっくり寝よう。

ネムネムの時は火葬にしたけれど、形だけ丁重で仰々しい動物火葬場で焼かれるのを待つ時間はつらすぎた。寒々したコンクリートの建物中で、小さな骨が箒で納められるのを見るのは本当に忍びない。
マロコはプランターの土に埋めてあげて、家に置くことにする。マロコは一生をこの家で過ごして、マロコの世界はこの家だけだ。

午前中、花柄の陶器のプランターを買ってきた。家族みんなで順番に、いつものように丸くなったマロコを手の中で抱いてあげて、葉っぱを敷き詰めた上にそっとおく。小さな花をたくさん敷き詰めて、まわりに、大好きな食べ物を。最近の主食むき栗、おやつアーモンドやクルミ、新鮮なブルーベリー、半分に切って食べやすくしたイチゴとぶどう、たくさんあるよ。最後はいっぱいの花で覆って、上から土をかける。家族みんなで手でかけてあげた。ありがとう、マロコ。ゆっくりゆっくりお休み。

最後を看取ってくれた動物病院の先生に、長いことお世話になったお礼をする。マロコを何度も助けていただいて、この1年は毎週キセノン照射で通院していた。尻尾の手術が順調に回復し、抜け毛も治ってきれいな毛並みになり、よかったねぇと話していた矢先だったから、先生と話をしたとたんに、たくさんの思いが一度機に湧いてきて不覚にも突然涙が溢れ出てくる。

お酒飲みながら、残ったアーモンドを食べる。


4月15日12:00
ゆっくり起きた。毎朝寝ているマロコを横の寝床から出して、手の中で二度寝させるのは、できなくなってしまった。顔を洗って歯磨きした後の朝一番、マロコの食事の用意もできなくなってしまった。小さなスポイトに入った薬を哺乳瓶のように飲ませることも。
土葬したプランターの中に、大好物のヨーグルトを入れるのを忘れてしまって本当にごめんよ。今朝、プランターの前に食べ物を少し用意した。いつものヨーグルトの小瓶からスプーン半分出して小さな器に入れる時、また不覚にも涙する。

私の机がある部屋はマロコの遊び場と共用だったから、いつもだと週末は綺麗に掃除して、私がパソコン作業してしている横で、マロコがちょろちょろ遊び回る。今朝も、机の上に敷いた小さな絨毯の上には、隠した栗、半欠けのアーモンド、ブルーベリーの食べかけ、干からびたイチゴのかけら、オシッコの跡など、つい二日前まで過ごしていた痕跡がそのまま残っている。とても片付けられるものじゃない。いつまでも残しておきたいけれど、いつかは片付けないといけないのだろう、いつかは。悲しいけれど、マロコのいない暮らしに、否が応でも慣れてしまうんだろう、いつかは。