ニューヨーク滞在二日目

NY滞在二日目=最終日の目的は三つもあった。どこも開いていない朝は、写真を撮りに行くことにする。去年ナショジオの記事を読んで、NYの新しい試みとして紹介されていて、とても印象に残っていた、High Lineという場所。こんなに早く来れるとは思っていなかったので、素直にうれしい。廃止された高架線の跡地を利用して、公園にするなんて発想を聞くだけで素晴らしいし、紆余曲折を経て都市再生のモデルになっているというのもうなずける話。

下から見ると、黒い鉄の塊の高架線が街を横切っていて、外見はイマイチ。でも、階段を上がると、線路あとをそのまま活用しているので、散歩やランニングに最適な道がずーと続いている。ブロックごとに、デザインの違うベンチや椅子が置いてあって、思わず座って景色をのんびり眺めたくなってしまう仕掛け。古ぼけた倉庫、レンガ建ての瀟洒なアパートやビル群が適度な高さから見渡せるので、歩くに従い景色の見え方が変わって行くのもいい。早朝の斜光に車や人の影を上から見れるシーンは、滅多に経験できないことだったので、写真好きな身としては、景色を楽しみながらもシャッター切り通し。手袋必須の寒さでしたが、冷たい空気が気持ち良い素晴らしい朝の1時間だった。

その後は、妻のリクエストで、ニューヨークシティバレエに居たSuzanne Farrell という著名なダンサーのグッズ探しに、北のリンカーンセンターに。日曜日なので開くのは昼前ということがわかり、昨日起き忘れたデジカメが届いていないかを、メトロポリタン美術館に問い合わせて見ることにする。大きな施設だし、電話して意図が通じるかとか、たらい回しされてしまわないかとか、気になったものの、セキュリティ担当者がとても親切に対応してくれて、調べるから30分後にもう一度電話するようにとのこと。時間はあるし、写真撮って時間つぶしして、30分後にかけたら、ぴったりのカメラが届けられているようだという、驚きの回答をもらった。アメリカで忘れ物をしたら戻ってこないものと覚悟していたので、うれしいのはもちろん、対応してくれた美術館の人の的確で早い対応に驚いてしまった。すぐに取りに行ったら、私が写っているカットを見せることで本人と確認して終了。加えて、メトロポリタン美術館に今日も入れるバッチをタダでくれたのだった。時間があればもちろん入りたかったけど、今日はMoMAに行くので、バッチだけもらって帰る。

MoMAは、日本語ではニューヨーク近代美術館と呼ばれるが、英語名称は、 The Museum of Modern Art とあるように、New Yorkという地名ではなく、冠詞のTheがついているところが、この美術館のプライド。世界のどこにでもある地名付き近代美術館の一つではなくって、世界でここでしか観れない唯一最高の近代美術を紹介する場所という意図なのだ。野球のアメリカNo.1を決める試合を、ワールドシリーズと平気で呼んでしまうのと似た、アメリカ的傲慢さも少し見えるネーミング。

高層ビルの林立するNY市街のど真ん中にあるので、少々驚き。5階の近代がやはり一番見応えがあった。ピカソはたくさん、面白いのは、他の画家の真似をわざとしているのを、比較している展示。テーマを微妙に変えているので、説明がなければ両方ともオリジナル画家の作品だと思ってしまうほど、ピカソは技法とテーマを自分のものにて描いてしまっているという恐ろしさ、天才と言われる所以ごもっとも。マチスだけの部屋。キリコの初めて見る絵が3枚、クレーの魚の絵など2枚、シャガール、ミロ、カンディンスキー、バルチュス、ワイエスポロック、他の始めて見るけど、好みの絵がたくさん。私的に一番よかったのは、始めてルソーを見れたこと。ジャングルの絵は現物がやっぱり迫力あった。ということで、足が棒になるどころか、靴ズレまでできるほど、ひたすら歩き回った一日だった。

昼過ぎにラーメン屋を見つけたので、チャーハン付き味噌ラーメンでお腹的落ち着きは効果的だった。日本でだったらそこらの手抜き食堂ラーメンの味だったけれど、ここではオアシスの水と同じだから、全然不満なし。よくぞ、ここにラーメン店開いてくれてましたと感謝。気になったのは、隣のアメリカ人女性2人組が、ラーメンを前にしてしゃべりっぱなしだったこと。アメリカ人が食事での会話が大好きなのは知っているけど、お願いだからラーメンの時は止めて、早く食べなさいと、何度言いたくなったことか。私の方が後から入って先に食べ終わってもまだ話していて、ラーメンが増えているのがわかった。作法というより、ラーメンをおいしく食べるための基本として、ラーメン業界がきちんと教えてあげるべきではないんだろうか。No words in eating Ramen tastely.ーお願いですから。

あまりにも疲れてしまって、今回ジャズライブとブロードウェイは、スキップ。次回があるかどうかはわからないけど、楽しみに取って置くことにする。

ニューヨーク初日の出来事

初めてのニューヨーク。仕事の出張後、土日の2日間だけ立ち寄って覗くことにした。一番やってみたいことは、美術館めぐりと写真撮ること。思いとしては、メトロポリタン美術館、近代美術館(MOMA)、グッゲンハイム美術館、ホイットニー美術館とそうそうたる美術館群をなるべく欲張って訪れたい。次には、ニューヨークは、パリに次いでか同じぐらいに写真の題材になっている都市。ぜひ、その雰囲気の一厘だけでも自分のシャッターで撮れないものかとの、大それた願い。

気張っていったものの、知らない街に行く前は不安が強い。それでなくても二日前から風邪気味で、熱は出ていないものの、鼻水と体のフワフワ感がが抜けない。二日しかないからと、朝一番の飛行機を取ったので、4時に起きて、5時に空港に着き、ゲートに行くと、なんと誰もおらずキャンセルのラベルが。どうも機体の手配が出来なくて、昨日からキャンセルになっていたらしい。じゃあ、なんで発券してしまうわけ?と思ったところで、ぶつける場がないので、怒りを鎮め、発券場に戻る。何がうっとうしいって、カバン、上着まもちろん、ベルト外して靴まで脱がされるセキュリティをもう一度通らないといけないのが、煩わしい。今回は国内線なので、スーツケースも全部持っているから、空港の中を距離歩くのもつらいのだ。一番の不安は次の便が取れるかどうかだったけれど、特に前の客が偉く時間かかっていたので、結構不安ではあった。

それは杞憂に終わり、次の便が取れたとはいえ、6時発が、10時発になり、4時間も時間をつぶさなくてはいけない。航空会社から6ドルの朝食券をもらったので、ダンキンドーナツで、ホットサンドとコーヒーで体を温かくすることにした。前向きに考えることにし、NYの下調べをほとんどやっていなかったので、行く場所の確認して地図に印をつけるなどしていたら、目が字を追えなくなり、急速に体が活動停止的になってきたので、仮眠を取ることにする。幸い、待合室の奥の方に、体を伸ばせる長椅子があり、上手く体制を整えその前後にスーツケースやカバンを置いて、万が一熟睡状態になったとして、盗まれないように配置を考える。ここらへんは、学生の頃駅での野宿や仮眠で鍛えてあるので、その本能で対応できた。さて、iPhoneのアラームもセットして、寝ようとしたのだけれど、あれやこれや一度に出来事が生じたので、体は眠いのに、頭が興奮状態から戻らない感じ。熟睡はしなかったけれども、1.5時間横になっていたらそれなりに休息を取れて、調子はよくなった。

45分だけのフライトなので、人数少なく、プロペラ機だ。20人程度が乗るバスのよう。席の真横にプロペラがあるので、回転し始めるのをみていたら、間違ってバードストライクが起きてしまたら、羽がこっちに飛んでくるんじゃないかという妄想を抱いてしまった。ジェット機の半分ぐらいの高度で飛ぶので、雲の合間を縫ったりして意外と爽快な雰囲気、ただし、音がうるさくなければ。

空港に着いてからも、シャトルバスの運転手がいい加減で、先に乗っていた私と夫婦二人組を下して、後で来た11人組の方を先に乗せていってしまい、なんやかんやで30分は余分に次のシャトルを待った。トンネルを越えてマンハッタン島に抜けたら、運転手が“Wellcome to New York!”と叫び、雰囲気出しに気を使ってくれたのはいいけれども、私のホテルの近くを通ったのに止まらず、別の乗客のホテルを先に回ったから結局一番最後に。結局ホテルに着いたのは、もう午後の2時半というとんでもない時間になったのでした。当初の予定どりであれば、8時には到着していたはずなのに。

それでも気を取り直して、まずは美術館を一件回ることにし、一番遠くにあるグッゲンハイム美術館に行くことにした。カンディンスキーのコレクションが豊富なことで有名だというのは、直前にガイドブックで知ったので、勇んでいくことに。しかし、すぐに地下鉄でつまずいた。一番最初に乗るべき線の出入り口に黄色いテープが張ってあって、入れないどころか、要は動いていない!お巡りさんに聞くと、シャトル線という別のが動いているからそっちに行けというのだが、よりによって、一番広くて込み合う駅(Times Squareの真下というのは後で知った。)なので、方向が全くわからない。シャトルのSマークであることを理解してたどり着いて、初地下鉄。グッゲンハイムからは最寄りの駅まで、15分ぐらいは歩く。そこは、一眼デジカメを持ってきたので、パチパチとシャッター切りながら歩く。

グッゲンハイムは結論だけ言うと、がっかり。企画展が、車のパネルを捻じ曲げてくっ付ける前衛美術家の展示がほとんどで、私にとっては肝心のカンディンスキーは、10枚もあっただろうか?他のコレクション展示も少なくて、欲求不満になった。時間はまだあるし、地図を見てみると、メトロポリタン美術館が歩いて行ける距離ではないか。ここはスケールが大きすぎて、私の好みの現代物が少なさそうなので、今回はスキップしようと考えていたのだが、グッゲンハイムで欲求不満になったので、見たいところだけ見ることに決めて、行くことにする。

ところが、入って見るとメトロポリタン美術館のスケールは、空間の大きさも展示物の量も種類も想像をはるかに超えていた。近現代ものは覗いて、古代エジプトから始まって、世界中の絵画・彫刻・工芸などほぼなんでもある感じ。例えば、中世の甲冑などは普通数個あればいい方だと思うが、いろんな種類が20−30個はあったはずだ。集め方が半端ではないのだ。驚いたのが、正式展示していない保管庫も見れるようになっていること。展示用でなく、保管だから、絵画、器、彫刻の類が、ガラス製の特性戸棚にしまわれて、ずらーっと体育館二つ分もあろうかという場所に置かれてある、その迫力はすさまじい。どうすれば、ここまで集めるということにこだわれるのか、集められた芸術品たちよりも集める執念の方に驚きを感じてしまう。

結局、4/1ぐらいみたあたりで、足も気力も目もほとほと疲れてしまって、帰る方向に向かうのだけれど、途中展示をみるとついつい回ってしまい、そのうちに方向感覚もなくなってあらぬ場所を歩きまわり、結局は、3/4は(見たというより)回ったと思う。メトロポリタン美術館の唯一の欠点は、レベルの高い展示物が多すぎて、じっくり見ようという気力を失わせてしまうことだろうか。駆け足で見るものではないなと、実感。会員になっている人が多いようで、気分に合わせて、好きな展示を分けてみるのが一番いいのだろう。でも、こういう日本的せっかち観光をしてしまう人もいるわけです。企画展示を4つぐら同時に行なうことができるというスケールを想像できますか?すごいものです、ほんと。
フランク・ロイド・ライトの建築した部屋まで展示されてあるのもびっくり。

帰りの地下鉄の駅で、中年4−5人組の男女が、ビートルズのコピー演奏をやっていて、えらい人だかり。そんなにうまいわけではないが、気持ちを込めて歌ってるのと誰でも知っているビートルズなので、集まる気持ちは分かる。ヘイジュートは、みんなで合唱になってしまうというのが、ここはやはりニューヨークかと思わせてくれた出来事でした。

帰りに大失敗をしたのでした。気に入っていて6−7年使っているLumix LX3というコンパクトデジカメを、たぶん、受付前の人が大勢いる長椅子に置き忘れてきてしまったこと。一眼レフをしまったり、コートを着たりするうちに、疲れもあってカバンに入れなかったのだ。がっくり。けっこういいショットを撮っていたし、カメラ自体への愛着もあったし。念のため明日電話かけてみるけど、アメリカだから???美術館に来る人は疾しい心の人は少ないだろうと思って、ラッキーを願おう。

ホテルに帰ったら、20:30。とてもじゃないが、食事にも、ライブにも行く気分にはなれない。いまこのブログを書いているのに、かれこれ1時間近くかかっているから、さっさと寝て、明日の英気を養おう。

中庸品質のススメーアメリカ流クオリティと日本の品質の間

先日、アメリカで同じ部屋に一週間滞在し、アメリカ流クオリティを示す例を四つも見つけてしまった。

  1. お風呂の栓がなかった。前に泊まった人はどうしたんだという疑問が先に湧いた
  2. お風呂の蛇口の装置が見た目ではわからないけれど、お湯を出す取っ手と、湯船用蛇口とシャワーを切り替える取っ手が、重なっているのだが、片方の寸法が出っ張っていて、取っ手が交差するところで、ぶつかってしまうこと、引っ張りながら回すというコツが必要
  3. コンセントの装置が取り付けが、どう見ても斜めになっていること
  4. ランドリーをお願いしたいが、袋がないので持ってきてくれといったら、3つも持ってきてくれたはいいけれど、中身をすぐに入れるから持って行ってくれといったら、それは私の係りじゃないからと、別の係りをわざわざ呼んできたこと

いずれも、ちょっとだけ丁寧にやれば、あるいはその場で判断すればいいようなことで、日本人的感覚からすればあまりにもレベルが低すぎて、おいおいおい、と言いたくなるところだ。

でも、ここでアメリカ流クオリティがダメで、日本流品質が最高という、お決まりの議論では終わらせたくないので、少し頭を切り替えて見た。考えてみれば、上に書いた件はいずれも目くじらを立てるほどでもないし、仕方ないね、まあいっかで、済ませられる話ではある。お風呂の栓が無くなるのは不思議ではあるけれど、呼べば直してくれる。そうでない方が心地よいのは確かだが、ブツクサ言いながらも我慢しようと思えばできる。

逆に日本流のモノやサービスの品質はいつでもどこでも過剰すぎるってのも考え直さないとはいないと思う。山手線で1分遅れてごめんなさいのアナウンスすることや、いちいち発車のベルを鳴らすことにどれだけの意味があるだろうか。匠品質を訴えるだけでいいのか、ということなどなど。日本の過剰品質問題を出して警鐘をならすってことは、世の中の人が大勢やってるので、そちらにおまかせ。(Googleで”過剰品質”と打つだけで、300万件以上ヒットするぐらい、このテーマは昔からされているけれども、いいか悪いかの二元論が多い。)

要は、品質にも中庸。品質高めるベキところは高く、低くてもいいところは、コストを下げたり我慢したりすればいいわけで、品質を場合に応じてコントロールするってことが、グローバル化&ローカル対応のこれからには肝要技術になるのではないか、と強調したくなるわけです。中庸っていうと、中途半端なイメージがあるかもしれないが、実は闇雲に高品質のつくりこみをすること以上に、設計時にもう一段高度な技と蓄積経験が必要。なぜって、感覚的・定性的な?品質?を、定量的に定義すること、測れること、制御できることのすべてができないといけないから。これは設計の世界。日本はつくること生産の世界は十分に得意だから、これからはもっと設計の世界を極めないと。

品質を設計するために、シックスシグマとか、タグチメソッドというすばらしい方法論があるんですけど、根付くのを待っていると世界に置いていかれるかもしれない。